今回の記事内容はコチラ
バロック期(16~17世紀)のイタリアに生きた、異端の天才画家〝Caravaggio〟(カラヴァッジョ)という人物の光と闇に彩られた生涯についてまとめています。
芸術が大きく花開いたバロック時代のイタリアに、光と闇を描く世紀の天才画家として名を馳せた、画壇の異端児が存在したことをご存知でしょうか?
その人物こそが、今も多くの人々の心を揺さぶる作品をこの世に残した「Caravaggio」(カラヴァッジョ)とい名の画家。
本名は、「ミケランジェロ・メリージ」
ローマ市内には、カラヴァッジョが描いた作品を鑑賞できる教会や美術館が多数あります。
カラヴァッジョというひとりの人間の「人生」を知ることで、イタリア観光の中で彼の絵画に出会った時、「ちょっと怖い宗教画」のイメージとはまた違った観点で、絵画を楽しむことができるようになります。
実は私も、カラヴァッジョの人生を知り、「何だか暗くて陰気な絵」としか思っていなかった作品への見方が大きく変わったひとり。
むしろ絵画に興味がない方こそ、ぜひ最後までお付き合い下さいね!
なんと、私が解説しているぞ。
今さら聞けない「カラヴァッジョって?」
カラヴァッジョ・・・
カラヴァッジョという名前は知っているし、何となく作品もどこかで観たことがあるような気がするけど、「実はあまりよく知らない」という方、案外と多いのではないでしょうか?
イタリア旅行のガイドブックで知ったという方も、多々いるはず。
カラヴァッジョは、こんな人!
じゃあ、お願いします!
ではまず、自己紹介から・・・
バロック絵画の先駆者として、西洋美術史上に名を残す偉大な芸術家のひとりと言われている。
徹底した写実主義と劇的に闇を照らし出す光と影の描写を得意とし、38才という若さでこの世を去ったイタリア出身の画家〝ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ〟。
しかしカラヴァッジョは、生涯で本名の「ミケランジェロ」を名乗ることは決してありませんでした。
それは、すでにイタリアで【システィーナ礼拝堂天井画】【最後の審判】の作者として知られていた彫刻家「ミケランジェロ」こと、ミケランジェロ・ブオナローティとの同名を嫌ってのこと。
そのため、出身地を表す「カラヴァッジョ」を生涯名乗ることになります。
旧イタリア紙幣「リラ」にも登場!
イタリアの通貨が「リラ」(ユーロ以前にイタリアで使用されていた通貨)の時代には、紙幣の顔としても国民から愛されていた。
絵画界に新たな分野を確立したスゴイ人物!
カラヴァッジョは、古典的なスタイルから抜け出せずにいたルネッサンス以降の芸術界に、新たな風を吹き込んだ先駆者としても知られています。
静物をまるで本物であるかのようにリアルに模写し、絵空事のような聖書の物語を、身近な現実の出来事のようにキャンバスへと描く。
華やかなルネサンスが終焉した時代に、徹底した写実描写と、劇的な明暗対比や感情表現で「聖マタイの召命」「果物籠を持つ少年」など数々の傑作を描き、多くの人々を魅了していきました。
宗教色が強い時代背景
今では当たり前となっている「見たままを忠実に捉える」〝写実主義・自然主義〟という分野。
だが、当時は自分の目に映る「リアルな現実」を描く人間は私以外には誰一人としていなかったんだ。
「神」を生身の人間のように描くこと自体、宗教上のタブーでもありました。
(サン・ルイージ・フランチェージ聖堂/ローマ)
(ボルゲーゼ美術館/ローマ)
劇的に描く「明暗技法」〝キアロスクーロ〟
カラヴァッジョの絵画の特徴は、その一瞬を切り取ったかのような迫真の描写力。一筋の強い光が闇を貫くようにドラマチックに染め上げる独自の色彩感覚。
【キアロスクーロ】 と呼ばれる強烈な明暗技法の活用によって、巧みな光と闇を表現し、センセーショナルな光に照らされて浮かび上がる一瞬の人物像を見事に作品に描きました。
「Chiaro」(明るい)「Scuro」(暗い)は、すなわち〝明暗〟を意味するイタリア語。
レオナルド・ダ・ヴィンチが最初に使用したと言われる「光の当たる部分は黄みを強く」 「影の部分は青みを強く」描く〝明暗を劇的に強調する技法〟のことだ。
カラヴァッジョの登場以降の絵画界には、ルネッサンス時代のような現実味のない空想や理想世界を描くだけのものではなく、〝いかに現実をリアルに模写するか〟といった認識も大きく広がっていくようになりました。
どこかかで、「ルネサンスを超えた男」とも呼ばれていた。
天才にして、悪名高い「ならず者」?!
しかしながら、その理想を追う古典主義の中では、カラヴァッジョの強烈すぎる表現方法と個性は、品位に欠ける野蛮なものとして、時に世間から多くの非難を浴びることもありました。
また、独自の宗教観を持っていたカラヴァッジョは、自身の恋人であった 高級娼婦をモデルにして「聖母マリア」の宗教画を描いたこともありました。
リアルさを追求した画風と、〝神聖なる宗教画〟と相反するイメージにある人物を幾度となくモデルとしたことで、カラヴァッジョは世間の度肝を抜き、彼の作品の受取りを拒否する人々まで現れました。
(映画〝カラヴァッジョ〟のワンシーンより)
性格にも強烈な個性あり…
居酒屋の店員の態度が気に入らなくて暴行したり、生意気な画学生を襲撃したり、時には警官に暴言を吐いたりなど、そんなことは日常茶飯事だった。
とりわけ「他人とのトラブルに事欠かない」カラヴァッジョは、生涯で100回以上も警察のお世話になったそう。
仕事がとにかく早く、実力も技術もあったので金銭面では困ることのなかったカラバッジョ。
ローマ時代は資金が入ると、数カ月の休暇を取り、腰には剣を携えて取り巻き達と街を飲み歩くなど、典型的なアウトロースタイルを貫きました。
仕事以外は評価ゼロ
周りには、私は随分と血の気の多い人物として知られていたようだ。
彼をよく知る周りの人たちからは、劇的に絵が上手いだけの「単なるゴロツキ」と評される素行の悪さでした。
異端児が生きる、流転の生涯
さて、稀代のトラブルメーカーとしても名を馳せたカラヴァッジョですが、自身の内面にある〝繊細さ〟を物語るように、光と影が照らし出す人々の内面をリアルに再現したような、ドラマチックで躍動する世界観を誰よりも大切に描く画家でもありました。
あなたはあなたの絵と同じ。
その人生の光の部分は限りなく美しく、影の部分は罪深い。
(映画〝カラヴァッジョ〟より)
激しい気性の裏に共存する内面の繊細さゆえか、人々が心に持つ光と闇が彼には誰よりも色濃く見えていたのでしょうか?
粗暴で激しい気性とは相反するように、カラヴァッジョが魂をかけてキャンバスに描き続けたものは、誰もが息を飲み心揺さぶられるような数々の名画。
『洗礼者聖ヨハネの斬首』
(聖ヨハネ大聖堂美術館/マルタ島バレッタ)
28歳の時に描いた絵画「聖マタイの召命」「聖マタイの殉教」にて、一躍イタリア画壇の寵児となった青年期のカラヴァッジョ。
輝かしいようにも思えたカラヴァッジョの人生には、どのような光と闇が秘められていたのでしょうか。
光と闇に彩られた物語
1571年 -ミラノ–
1571年9月29日、カラヴァッジョこと「ミケランジェロ・メリージ」は、3人兄弟の長男としてミラノで生を受けました。
再び、猛威を振るう疫病 ペスト
疫病ペストが再び猛威を振るい始めた、当時のミラノ。少年カラバッジョは、祖父、叔父、父親を相次いでペストで失うことになります。
6才で父を、11才で母を失ったカラヴァッジョは、13歳の時にルネッサンスの有名画家ティツィアーノの弟子であった、画家「シモーネ・ペテルツァーノ」の工房へ師事し、修業時代をミラノで送ることになります。
なぜ「カラヴァッジョ」?
ペストの流行から逃れるため、幼少期に家族でベルガモ近郊の「カラヴァッジョ村」へ移り住んだんだ。
ダ・カラヴァッジョ(カラヴァッジョ村の出身)を名乗ったのは、こんな理由からだ。
1592年 -21才で独立しローマへ
時代のタブーをもろともせず、描きたい作品をひたすらに描き続け、愛したい女性をひたすらに愛したカラヴァッジョ。その血の気の多い性格からも、「美術界の異端児」と呼ばれ始めます。
そして、不器用なまでに己のすべてを絵画とリアルな現実へと捧げていきます。
激しい気性と天からの授かった才能の狭間で、多くの敵を作っていったカラヴァッジョの人生は、ここから予期せぬまま急転を迎えていくことになります。
静物画から宗教画へ
ミラノ時代は〝静物画〟を好んで描いていた。
ローマに出た後は、生活面の全面的援助を申し出てくれた「デル・モンテ枢機卿」の影響で、徐々に宗教画を中心に描くようになった。
リアルの追及はどうやって?
…この封鎖的な時代に、どうやって写実主義を追及していったのかを知りたいって?
私は徹底した現実主義者だったので、知り合いに頼んで「聖マタイの殉教」のモデルをお願いしたりした。
時には自殺した中年女性をアトリエに持ち込んで、光源や陰影の在り方を忠実に追及していったんだ。
タブーは無視!
当時はモデルを使うなど、絶対的タブーであったものの、カラヴァッジョは実際にモデルを利用することで、自分の目で光線の角度などを確かめながら、忠実に現実を描いていった。
逃亡生活の幕開け
私の人生は、ローマ、ナポリ、マルタ、シチリアへと舞台を遷していくことになる。
『聖マタイの殉教』
(サン・ルイージ・フランチェージ聖堂/ローマ)
1592~1606年 -ローマ-
ローマ中から喝采を浴び、画家としての高い名声を得ていた、順風満帆であったはずの「1606年」のこと。
流転の始まりは、思いがけない形で35歳のカラヴァッジョの元へとやってきました。
些細なケンカがエスカレートした挙句、相手をナイフで刺し殺してしまったカラヴァッジョ。殺人犯としてローマにて〝死刑宣告〟を受けます。
そのため、ローマからの逃亡を余儀なくされます。
まさか、殺人罪で追われる身になろうとは・・・
1607~1608年 -マルタ島-
罪人として追われる身となったカラヴァッジョは、ローマの司法権が及ばないナポリを経て、マルタ島で逃亡生活を送ることになります。
ナポリからマルタ島へと逃亡したカラヴァッジョは、聖ヨハネ騎士団(聖マルタ騎士団)に加入し、この地で〝騎士の称号〟を授かります。
騎士団に加入することで「教皇から恩赦を得る」というのが、マルタ島での彼の思惑でした。
騎士団長の庇護の元であっても、カラヴァッジョは常に追手に怯えながら日々を過ごします。身を護るための剣を常に携帯し、ひたすらに作品を描き続けました。
そして、聖ヨハネ騎士団の〝サン・ジョヴァンニ大聖堂〟を飾る大傑作「洗礼者ヨハネの斬首」をマルタ島で完成させます。
しかし・・・
称号の任命からわずか1カ月後、相変わらずの気性の激しさによって、騎士団員ともトラブルを起こしてしまいます。
カラヴァッジョはそのまま投獄され、 マルタでも再び窮地が訪れます。
え?!どうするの?!
まずはシチリアへ逃げる。
すぐに脱獄の準備だ!
そして、見事に脱獄に成功したカラヴァッジョ。
しかし、騎士団長の許可なく島を離れることは重大な規律違反であり、聖ヨハネ騎士団からの除名という重大な処罰を受けます。
この事件を機に、騎士団からの報復にも怯えながら、再びカラヴァッジョの逃亡生活の幕が開けます。
1609年~1610年 -ナポリ-
脱獄の翌年、ナポリでもまた乱闘騒ぎを起こしてしまったんだ…。相手に居酒屋で待ち伏せされて、瀕死の重傷を負わされたなんてこともあった。
あなた、本当に画家なの…?
流転の人生の果てに
『ロレートの聖母』
(サンタゴスティーノ教会/ローマ)
1610年 -転機から幕へ-
その頃、デル・モンテ枢機卿を筆頭に、多くのカラヴァッジョ支援者が恩赦嘆願のためにローマで必死の努力を重ね、ナポリからシチリアへと逃亡していたカラヴァッジョの元に「教皇による恩赦」の知らせが届きます。
カラヴァッジョは「洗礼者聖ヨハネ」など3作品を持って、すぐにナポリから船でローマへと向かいます。
だが、ローマへ向かう途中の近郊海岸パーロで誤認逮捕されてしまうんだ。船に積んでいた大切な作品の行方も、船の出航で見失ってしまった…。
その後、釈放されたカラバッジョは、逮捕時に紛失してしまった絵画の行方を追います。
目指すのは、出航した船の停泊地である ポルト・エルコレ(Porto Ercole)という港町。
しかし…。
同年 7月18日
カラヴァッジョ没、享年38才のことでした。
恩赦を強く願う想いとは裏腹に、カラバッジョは熱病に侵されたまま、サンタ・マリア・アウジリアトリーチェ病院にて激動の人生に幕を下ろすことになります。
その後のカラヴァッジョ
没後の私には教皇からの恩赦が与えられ、犯した殺人罪は永遠に許されることになった。
そして、〝聖ヨハネ騎士団のマントに包まれていた〟との記録が残るカラヴァッジョの亡骸は、時代の流れと共に行方不明に・・・。
そこからまた、長い月日が流れていくことになります。
時は流れて、1956年
カラヴァッジョの遺骨は数奇な運命の元、道路工事の最中に〝偶然〟掘り起こされることになります。
見つかった遺骨は、約200人が眠るポルト・エルコレの小さな教会の地下納骨堂に「そのまま」安置されることになります。
カラヴァッジョ本人のものとは特定されないままに、です。
・・・。
そして、2010年の現代
ボローニャ大学の法医人類学者を中心とした、イタリア国内の有識者で結成された「カラヴァッジョ委員会」の緻密な調査が行われました。
地下納骨堂で発見された遺骨のうちのひとつが、 85%の高い確率でカラヴァッジョ本人のものであると断定されます。
▽イタリアの科学者チームによって詳しく解明されています。
直接の死因に繋がる新事実も!
この年、ポルト・エルコレ(トスカーナ州の南に位置する〝マレンマ〟と呼ばれる海岸地域の街)の市長と「カラヴァッジョ支援協会」の人々が、彼の墓標を建て、遺骨を正式に墓所へと埋葬しました。
没後400年を記念するメモリアル・イヤーでもあった2010年、カラヴァッジョの世紀を超えた流転の人生は、ついに終わりを迎えました。
ガラスケースの墓標には、
MICHELANGELO MERISI
detto
IL CALAVAGGIO
(1571-1610)
カラヴァッジョを名乗った
ミケランジェロ・メリージ
(1571-1610)
と記されています。
カラバッジョの人生の終焉の地であった、港町「ポルト・エルコレ」が、現代の科学の力により、彼の永遠の安息の地となりました。
現代のカラヴァッジョ作品
世界初公開!個人秘蔵の〝カラヴァッジョ〟
『エマオの晩餐』
(ブレラ美術館/ミラノ)
2016年3月 -東京-
から、東京/上野の国立西洋美術館で開催された「カラヴァッジョ展」では、彼が死ぬ間際まで携えていた幻の作品「法悦のマグダラのマリア」が世界で初めて公開され、日本でも話題を呼びました。
『法悦のマグダラのマリア』
幻の〝カラヴァッジョ〟発見される?!
2014年 -フランス-
南西部トゥールーズ近郊の住宅で、雨漏りのする天井を住人が調べていたところ、カラヴァッジョ作の「ホロフェルネスの首を斬るユディト」だと思われる絵画が発見され、大きなニュースとなりました!
フランス政府は、専門家による作品の鑑定が続く2年半の間、国外への持ち出しを禁止しています。
『ホロフェルネスの首を斬るユディト』
保存状態がとても良いので、もし本物であれば〝1億2000万ユーロ〟(日本円でおよそ150億円)の価値があるのでは?!…と言われています。
カラヴァッジョの同タイトル別作品
『ホロフェルネスの首を斬るユディト』
バルベリーニ宮殿(国立古典絵画館)/ローマ
まとめ
激しく情熱的に生きた「光と闇」の軌跡
カラヴァッジョの38年の生涯は、いかがだったでしょうか?
思うままに描き、思うままにリアルを追及した、バロック時代の画壇の申し子ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラバッジョ。
光と闇の明暗を誰よりも知り尽くし、自身もその身に強烈な明暗を纏うような生涯を生きました。
没後400年以上たった今でも「カラバッジョ」の呼び名で世界中を魅了する、紛れもないイタリアを代表する希代の天才芸術家のひとり。
カラヴァッジョは生涯で残した作品数は約80点程と少ない事でも知られていますが、鮮烈な光と影で彩られた印象的な名画たちは、今でも変わることなく人々の魂を震わせ、心の奥底を突き動かします。
祖国イタリアの地では今も色褪せることなく、光と闇が躍動するエモーショナルな絵画を見上げるすべての人々の心に、強い光を注ぎ込んでいます。
「暗くて怖い宗教画」も、このように描いた人物の人生へフォーカスすることで、ストーリーや時代背景を知り、純粋な気持ちで作品を観賞できるようになりますね。
カラヴァッジョをもっと知りたい方は・・・
映像で観るカラヴァッジョの世界
私の生涯については、映画やDVDでも観ることが出来るようだ。映画の中では私の作品にも触れていて、何よりも目で見て楽しめるのが分かりやすいだろう。
こちらの作品は、2010年のカラヴァッジョ没後400年を記念してイタリアで制作された〝TVシリーズ全2話〟を1本のフィルムにまとめて劇場公開したものです。
カラヴァッジョ
-この身は愛するために、命は描くために-
情熱的に愛し、自身の信念を貫くために闘いを挑み、そのために多くの敵を作った彼の人生はローマ、ナポリ、シチリアへと流転する。絵画の依頼主であったヨーロッパ貴族による教皇の座をめぐる争いの中で、ある時は時代の寵児に、ある時は反逆者の烙印をおされた画家の真実の姿とは…?
(映画〝カラヴァッジョ〟HPより)
ローマで鑑賞するカラヴァッジョ作品
1592年~1606年までの14年間をローマに暮らした、在りし日のカラヴァッジョ。そんな彼の〝所縁の地のひとつ〟ローマで、現在も鑑賞できるカラヴァッジョ作品を一覧にまとめてみました!
「カラバッジョの絵画巡り」を通し、カラヴァッジョというひとりの人間の人生に触れてみて下さいね!
最後までお読みいただき、ありがとうございます。